ときは今、明智光秀ここに見参【1】

こんにちは!明智光秀大好きすぎて明智光秀をテーマにした洋菓子店を作った明智茶屋初代店長の植村です。

2020年に明智光秀が大河ドラマに決定したのはご存じですか?僕はとても嬉しく思っています。

もともと、大河ドラマが決定するまでにお店をオープンさせたい!とゆう想いは20代中頃からあって、2015年にオープンしました。

なぜ決定するまでにオープンしなければいけなかったかとゆうと、決まってからオープンしたのではミーハーとゆうか、のっかったとゆうか、、、

そんなんじゃなくガチなんだぞ!と証明したかったからです。

で、まぁ願い叶ってやったー!って感じなんですけど、ここからなにをして2020年を迎えるかってとても大事ですよね。

なので、「たくさんの人に知ってもらう為の準備」をしようと思います。

 

前のブログで丹波攻めをキーワードにブログを書いていたのですが、

前回までのブログ↓

丹波攻略についてまとめてみた

丹波攻めやってみた

今回は地元の新聞社「両丹日日新聞社」の記事を紹介していきます。

なんで両丹新聞社の記事を紹介するのかというと、良質な記事なのでもっと多くの人に読んでもらいたいと思ったからです。

ただ、思うのはいいけど、勝手にしちゃいけないのです。

筆者の八瀬さんに連絡をしてみたところ、快くOKをもらえたので今日に至ります。

八瀬さん両丹日日新聞社さんありがとうございます。

文字起こしや情報提供しいただいた光秀研究家の十兵衛さんありがとうございました。

十兵衛さんのブログはこちら→ブログ光秀さんとウイスキーを

 

 

 

出所;両丹日日新聞「時はいま 明智光秀 ここに見参」連載記事

タイトル;日記の中の”ふくちやま”と”明智光秀”

文責(筆者名);八瀬正雄

 

「へぇー、福知山って京都府なんや。ずっと兵庫県と思とったわ…」。

福知山人としては軽くショックを受ける会話ですが、阪神地域の住人と話をすると、たまにこんな反応が返ってきます。

その方いわく、福知山線・山陰線で但馬や山陰の日本海に向かえば、通るのはだいたい兵庫県、途中の福知山が京都府とは思わなかったと言うのです。

なるほど、自動車で高速道路を通る時も、このイメージはありますね。

 

そんな福知山ですが、古くは交通の要所、現在では北近畿の中核都市として知名度が高いと言われます。

では「ふくちやま」と呼ばれ始めたのは、いつ頃からなのでしょうか。

 

江戸時代には福知山城があって、福知山藩が置かれました。

明治4年(1871)の廃藩置県後は福知山県、豊岡県、京都府天田郡と分割と統合を繰り返し、明治22年(1889)に現在の全身となる福知山町が誕生します。

けれどもその名前の始まりは定かではなく、自分たちの住んでいる「福知山」の由来が、何より知りたいところです。

 

歴史上「ふくちやま」の初見は、437年前の天正九年(1581)、まさに明智光秀が丹波領主であった時代にあります。

その記憶は堺の豪商であり、時の茶人・千利休(せんのりきゅう)・今井宗久(いまいそうきゅう)とともに、茶湯の天下三宗匠と称された津田宗及(つだそうきゅう)の「津田宗及茶湯日記(天王寺屋会記)」にしたためられています。  

 

「四月九日ニ、丹波亀山ヨリ奥郡へ通申路次中ニて 方々振舞之有  四月十日朝、福地山ニて明知弥平次殿之振舞 七五三膳也  四月十一日朝 従福地山罷出候也 惟任殿御供申候路次にて 福寿院振舞 茶屋ヲ立て 生鮎生鮭鮒 せんすひに俄用意にて魚共をはなされ候 是モ七五三 色々様々ニ振舞也(後略)」

 

要訳すると

「4月9日、(津田宗及一行)は丹波の亀岡を出発し、10日朝には福知(地)山に到着、明智秀満から御馳走を振る舞われ受けた。翌11日朝には福知(地)山を発ち、ここから明智光秀も合流して途中、福寿院(ふくじゅいん)にて茶を点て、いけすに放した鮎や鯉、鮒などを食材にした饗応(きょうおう)を受けた」となります。  

(後略)の部分には、翌12日の宮津での細川藤孝・忠興からの饗応接待、明智光秀父子と宗及一行である同じく茶人の山上宗二(やまのうえそうじ)と平野道是(ひらのどうぜ)、蓮歌師の里村紹把(さとむらじょうは)らと、天橋立の見学や連歌を楽しんだことがつづられており、戦国武将にあって、特に教養深いと評価される光秀・藤孝が、当代第一級の文化人たちを自らの領国へ招き、新たに築いた自慢の城でもてなした出来事を知ることができます。  

 

このように、明智光秀の丹波支配とともに歴史の表舞台に突如として現れる「ふくちやま」。

その由来について、寛政6年(1794)に編纂された「丹波志(たんばし)」の著者は、明智光秀が天下の名峰「富士山」にちなんで命名したと考え、また後世の地誌類では和泉式部(いずみしきぶ)の歌にある古の「吹風山(ふくちやま)」につながるのではないかと論考しています。  

この詳細は別の号に譲るとして、私としては和歌に長けた教養深い光秀が、古くから密かに伝えられていた由緒ある地名を掘り起こし、これまでにない新しい”まち”を造るにあたって、装いも新たに「福知山」の呼び名を授けたのではないかと思っています。

おまけですが途中で出てくる津田宗及茶湯日記は翻刻されていてweb上で見ることが出来ます。

国会図書館デジタルコレクション「津田宗及茶湯日記 他会篇下」の109頁目が天正九年四月九日になります。

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