【明智光秀ゆかりの地 62選】
これまでのブログ
今回は寄り道します。
先日丹波福知山明智光秀公研究会の西雄さんにもらった資料でとてもおもしろい資料がありました!
その名も「明智光秀公ゆかりの地一覧」です。
これは紙媒体だけで終わらすのはもったいない。全国に散らばる明智光秀が好きな人たちにもみてもらおうと思い文字化しました。
残念ながら僕の大好きな岐阜県の情報は載ってないですが、丹波方面はかなり詳しく研究されてます。
文字化しながらちょっとおもしろかったのは幽霊のしわざで〇〇できないとか、
寸法が足りないからいらないとか歴史に眠る生活臭が香る瞬間があります。
そういうところを楽しんでください。
光秀公研究会(丹波福知山光秀公研究会)の西尾さんに来てもらい丹波攻めの勉強会をしました(^^)
この光秀公研究会は長年に渡り光秀の研究しているらしい!ってゆうか最近丹波攻めを決めてから光秀知欲がすごい。 pic.twitter.com/2zwSKhGrxy
— 明智茶屋@明智光秀祝大河決定! (@akc_japan) 2018年9月27日
*下記は丹波福知山明智光秀公研究会の資料を掲載しています。
1味土野
京丹後市弥栄町味土野
光秀の娘、玉子は天正6年(1578)細川忠興と結婚、本能寺変後忠興は、一時玉子を丹後山中の味土野に幽閉した。
2宮津城跡
宮津市鶴賀
光秀と盟友であった細川藤孝、忠興親子は天正8年(1580)信長の許可を得て、大手川河口に城と城下町を築いた。
3ガラシャ像
宮津市柳縄手
細川忠興玉子(ガラシャ)生誕450年記念行事として細川ガラシャゆかりの地、丹後宮津に、銅像が建立されました。
4盛林寺
宮津市喜多696
山崎の合戦後光秀の首が密かに宮津城の玉へ届けられ、盛林寺に葬られたという。宝篋印塔と位牌が祀られている。
5金剛心院
宮津市日置2268
細川ガラシャは、幽閉時密かに宮津城を出て、船で妙見山を目当てに日置の浜へ渡り、金剛心院で休息し味土野に向かう。
6北野城跡
綾部市仁和町池ノ谷
城主志賀氏は、天正10年(1582)明智光秀に従って出陣し討死、一族は滅び3歳の子息が乳母に保護され桑飼村に逃げる。
7長福寺
綾部市向田町
光秀丹波攻略の際、家来の山城守に別所討伐させ戦賞として聖観世音を与えた。この地で動かなくなり観音様を奉安した。
8しずく松
綾部市向田町
雨も降らないのに、木の葉から「しずく」が落ちる。明智光秀が福知山城築城の際、伐採して城天守の棟木にしたという。
9甲ケ峯城跡
綾部市広瀬町城山
城主和久氏が信長にそむき、明智光秀に制圧を命じ天正7年(1579)城の破却命令に従わなかったために滅ぼされた。
10洞峠
綾部市睦寄町古屋
天正7年(1579)明智光秀が何鹿郡を平定した時、君尾山光明寺、草壁の金剛寺を焼き払い帰りに洞峠を越えると伝わる。
11金剛寺
綾部市睦寄町草壁
開山は春屋妙葩である。明徳2年(1390)金剛寺とする。天正7年(1579)明智光秀丹波侵攻により焼き討ちにあう。
12光明寺
綾部市睦寄町君尾
聖徳太子の開山で、真言宗の大道場であった。天正7年(1579)明智光秀の丹波侵略で仁王門を残し全山消失した。
13深山薬師寺跡
綾部市武吉町深山
天正年間明智光秀が、薬師寺を取り壊し、福知山城普請に持ち帰ったと伝わる。当時の大日如来座像が玉泉寺に残る。
14福知山城
福知山市内記
天正7年(1579)の丹波平定後、丹波奥部・丹後の押さえとして明智光秀により築かれた。本格的な石垣作りの城であった。
15御霊神社
福知山市中ノ町
明智光秀公の霊を祀る唯一の神社である。福知山市の治安と地税免除を与えた光秀公に感謝し宝永2年御霊を祀った。
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16天寧寺
福知山市大呂
高僧愚中周及を開山とする。足利氏とゆかりの深い古刹である。明智光秀と明智秀満の諸色免許等を与えた古文書が残る。
17威光寺
福知山市下佐々木
福知山城築城の際、光秀に反する近隣の寺院が破壊された。当寺も取り壊される最中住職と軍使が美濃の出身で中止する。
18野際の石龕
福知山市上佐々木
福知山城築城の際、周辺の寺院を取り壊し、石垣用に墓石まで運んだ。光秀はそのかわりに新しい墓塔をもたらした。
19鬼ケ城跡
福知山市安井
天正7年(1579)7月19日光秀軍は、宇津を攻撃した後、この鬼ヶ城へ攻め寄せた。相手は赤井氏・塩見氏か不明。
20猪崎城跡
福知山市猪崎
地元豪族、塩見氏の居城と伝承がある。天正7年(1579)明智光秀軍攻撃時には、既に赤井氏によって落城していた。
21明智藪
福知山市音無橋西詰
明智光秀公は、築城と共に城下町や堤防を築き、由良川の流れを変え、その支流土師川と合流する川岸に竹を植えた。
22あねおの局石
福知山市夜久野町千原
光秀が推挙した信長の愛妾、阿能の局は本能寺の変後、逃れて故郷の千原に戻ってきたという。天正の戦乱は奥丹波にも
23友渕城跡
福知山市三和町友渕
明智光秀が丹波攻略の基地として築いた城として伝わる。西の古城跡には秋葉神社、金刀毘羅神社、光秀を偲んだ天満宮など
24妙法寺
丹波氏青垣町小倉
明智光秀に恭順し、本能寺の変にも加わった足立基則の石碑がある。山崎の合戦に敗れた後の天正11年、亀山で自殺
25円通寺
丹波氏氷上町御油
天正6年(1578)9月付けの光秀禁制が伝わる。同年3月には八上城の再度の攻撃が始まり光秀の保護下にはいる。
26興禅寺
丹波氏春日町黒井
黒井城の下館、城を守った光秀の家臣、斎藤利三の娘で、後に春日局として徳川家に使えた御福はここで生まれたと伝わる。
27白毫寺
丹波氏市島町白毫寺
明智光秀重臣、斎藤利三に天正8年(1580)7月23日付けの下知状が伝わる。黒井城の水源がここで絶たれた伝承。
28黒井城跡
丹波市春日町黒井
光秀の丹波攻めに波多野氏と共に抗戦した赤井氏の居城。丹波奥部の氷上、天田、何鹿郡を手中にしていたが、天正7年落城。
29稲畑御霊神社
丹波市氷上町稲畑村
丹波攻略時、この地に軍勢を休息させ、また税の免除をした。このような縁故をもって明智光秀を祀り御霊神社とした。
30八上城跡
篠山市八上町八上
波多野氏の大規模な居城として知られる。光秀軍が長期にわたり攻めたが難攻不落の城であった。天正7年6月に落城。
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31高山寺
丹波市氷上町常楽
明智光秀公は、信長の命令により弘浪山山頂の高山寺より釣鐘を下し、稲畑村を通り柏原八幡宮の仮本陣に運んだ。
32金山城跡
丹波市柏原町上小倉
明智光秀が丹波攻めの際、氷上の赤井・多紀の波多野勢を分断するため、郡境に築いた城、付近に鬼の架け橋がある。
33籾井城跡
篠山市福住字北山
亀岡・園部から通じる谷間を押さえた籾井氏である。天正5年(1577)光秀軍二度目の丹波攻めに抵抗しきれず落城する。
34玉雲寺
京丹波町市森小字滝見
天正7年(1579)光秀の市森城攻撃があり、その兵火で寺が焼失した。天正8年(1580)母の菩提寺として光秀が再興した。
35須知城跡
京丹波町字市森
天正年間の明智光秀による丹波攻略では、須知氏は織田方として参戦しているが、その後謀反し明智勢に攻められ落城。
36園部曹源寺
南丹市園部町南八田上垣
この地で光秀軍と波多野軍の戦いがあり多くの犠牲者がでた。光秀は供養のために桔梗紋の留め金を打った厨子を寄送した。
37園部御霊神社
南丹市園部町南八田
光秀の母親が本能寺の謀反をなげいて参道の黒松で首をつって自殺したと伝わる。御霊八所大明神に母堂を祀ると伝わる。
38亀山城跡
京都府亀岡市荒塚町
天正5年(1577)光秀が丹波攻略の拠点として築城する。本能寺の変はこの亀山城より出陣、東に向かい本能寺を襲撃した。
39谷性寺
亀山市宮前町猪倉土山
明智光秀が、山崎の戦いに敗れ坂本城に向かう途中小栗栖で農民に討たれ、生前に信仰していた当寺に首を葬った。
40周山城跡
京都市右京区京北周山町
天正7年明智光秀が丹波攻略に築いた城である。坂本城より莫大な軍資金を持ち出し明智再興の為、埋めたと伝わる。
41慈眼寺
京都市右京区京北周山町
黒く塗られた明智光秀公座像と位牌が安置されている。逆臣の汚名を着せられていたため木像は黒で塗りつぶされている。
42薬師寺
京都市右京区京北細野町
明智光秀が、周山城築城の時薬師寺を破却しようとしたが、霊異により破却できなかった。絵巻物と刻印の丸柱が残る。
43賀善寺
南丹市日吉町中世木
賀善寺の御堂の丸柱には、明智光秀が周山城の用材として徴発するため刻印したが、寸法が足りない為、残されたと伝わる。
44普門院
南丹市日吉町中世木
当時の建物は、明智光秀が周山城を築く時に取り壊され城の用材とされたと伝えられています。盆の松明行列が有名である。
45梅若屋敷跡
南丹市日吉町殿田
本能寺の変で、梅若家は明智方に付き広長は山崎の戦いで負傷して亡くなっています。その後徳川家康に仕える
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46愛宕神社
京都市右京区嵯峨野愛宕
山城・丹波境の愛宕山(924m)山頂にあり、明智光秀が織田信長を攻めた「本能寺の変」の際、参拝して籤を引いたと伝わる。
47西教寺
大津市坂本町五丁目
近江滋賀郡は明智光秀に与えられた。坂本城は、西教寺に近く寺の復興に光秀の援助があり、光秀公没後、菩提寺となる。
48坂本城跡
大津市坂本町三丁目
元亀2年(1571)比叡山焼き討ち後、織田信長は滋賀郡の支配を命じ、明智光秀に延暦寺の監視の為、坂本城を築城させた。
49(金地院)明智門
京都市左京区南禅寺福地町
天正10年明智光秀が母の菩堤のため、黄金千枚を寄進し柴野大徳寺に建立した桃山建築の唐門で明治初年当院に移築。
50明智風呂
京都妙心寺境内
天正15年(1587)塔頭太領院の蜜宗和尚が明智光秀の菩堤を弔うために創建した。風呂とは違い蒸し風呂になっている。
51光秀首塚
京都市東山区白川三条
小栗栖で襲われた光秀は知恩院で灰にせよと命じたが、たどり着けず当地に首を埋めた。光秀の五輪塔墓が建てられた。
52真如堂
京都市上京区真如堂突坂町
斎藤利三は天正10年6月17日六条河原で処刑されます。真如堂には斎藤利三、梅北友松、東陽坊長盛の墓が並んである。
53小栗栖
京都市伏見区小栗栖
天正10年(1582)本能寺の変後、山崎の合戦で敗れ6月13日夜、坂本城へ退却する途中京都小栗栖で農民に打たれる。
54本能寺
京都市右京区寺町御池下る
天正15年(1587)豊臣秀吉によって都市計画による区画整理を名目に現在の本能寺に移動させられた。
55本能寺跡
京都市右京区元本能寺南町
天正10年(1582)6月2日早朝、明智光秀により本能寺を襲撃された。織田信長この地で自刃し本能寺は炎上した。
56山崎光秀本陣跡
サントリービール京都工場内
天正10年(1582)明智光秀軍と羽柴秀吉軍は、円明寺川を挟んで布陣した。光秀軍は御坊塚に本陣を置き指揮をとった。
57熊川宿得法寺
福井県三方上中郡若狭町
元亀元年4月織田信長の朝倉攻めの際、徳川家康や明智光秀公が宿泊したと伝わる。道中異常なし手紙を藤孝に光秀が送る
58越前称念寺
福井県坂井市丸岡町長崎
明智城落城後、越前称念寺に落ち延びて、門前で寺子屋をしながら家族と暮らす。有名な芭蕉の句、黒髪伝説の伝承の地。
59一乗谷朝倉遺跡
福井県福井市城戸ノ内町
称念寺の住職の推挙により朝倉家に仕官する。鉄砲隊を任される。ここで細川藤孝、足利義明と出会い織田家の家臣となる。
60東大味明智神社
福井県福井市東大味
当時の明智光秀公屋敷跡に祠を建て逆臣となった明智光秀公の秘仏を400年に渡り三件の農家で、今日まで守り続ける。
61綾部井堰
綾部市並松町
天正年間明智光秀が、丹波を支配した時に栗・天田井堰と共に築いたと伝わる。今も綾部・福知山の広大な農地を潤す。
62熊川城跡
福井県三方上中郡若狭町
熊川城沼田光兼氏の居城である。沼田光兼の娘麝香(じゃこう)は細川藤孝の妻であり細川忠興の母親である。
国土地理院DEMデータ (http://www.gsi.go.jp/index.html)をもとに光秀公研究会にて作成