ときは今、明智光秀ここに見参【3】

こんにちは!明智光秀大好きすぎて明智光秀をテーマにした洋菓子店を作った明智茶屋初代店長の植村です。

2020年に明智光秀が大河ドラマに決定したのはご存じですか?僕はとても嬉しく思っています。

もともと、大河ドラマが決定するまでにお店をオープンさせたい!とゆう想いは20代中頃からあって、2015年にオープンしました。

なぜ決定するまでにオープンしなければいけなかったかとゆうと、決まってからオープンしたのではミーハーとゆうか、のっかったとゆうか、、、

そんなんじゃなくガチなんだぞ!と証明したかったからです。

で、まぁ願い叶ってやったー!って感じなんですけど、ここからなにをして2020年を迎えるかってとても大事ですよね。

なので、「たくさんの人に知ってもらう為の準備」をしようと思います。

 

前のブログで丹波攻めをキーワードにブログを書いていたのですが、

前回までのブログ↓

丹波攻略についてまとめてみた

丹波攻めやってみた

丹波攻めやってみた②

今回は地元の新聞社「両丹日日新聞社」の記事を紹介していきます。

なんで両丹新聞社の記事を紹介するのかというと、良質な記事なのでもっと多くの人に読んでもらいたいと思ったからです。

ただ、思うのはいいけど、勝手にしちゃいけないのです。

筆者の八瀬さんに連絡をしてみたところ、快くOKをもらえたので今日に至ります。

八瀬さん両丹日日新聞社さんありがとうございます。

 

 

 

 

出所;両丹日日新聞「時はいま 明智光秀 ここに見参」連載記事

タイトル;「丹波領主 明智光秀」

文責(筆者名);八瀬正雄

 

諸将が割拠(かっきょ)し、混沌(こんとん)とした戦国時代の丹波を平定した明智光秀。

信長から与えられた新たな領地丹波一国は約29万石、坂本を拠点とする本領近江志賀郡5万石、そして摂津の池田恒興(いけだつねおき)や高山重友(右近)(たかやましげとも(うこん))、大和の筒井順慶(つついじゅんけい)、丹後の細川藤孝(ほそかわふじたか)までもが光秀の寄力(よりき)として指揮下にあったことで、光秀の影響力は畿内の広大な範囲に及びました。

 

戦国時代研究の第一人者である小和田哲男(おわだてつお)氏は、同じ信長直臣で東国支配を任された滝川一益(たきがわかずまさ)を〝関東管領(かんとうかんれい)〟と呼ぶのであれば、光秀は〝近畿管領(きんきかんれい)〟とも言うべき強大な地位を得たと論じておられます。

 

さて、光秀が苦難の末に手に入れたこの「丹波」。現在では京都府下の京丹波町や南丹市、兵庫県の丹波市にその名を伝えていますが、なんでも篠山市は「丹波篠山市」と改名する案が有力となっているとか…。

 

やはり丹波という名に愛着を感じるとともに、ブランドとしての発信力が大きいのでしょうかね。私的には、丹波と言えば「まつたけ」「黒豆」「クリ」などの山の幸、そして川には光秀が好物であったともいわれる「アユ」がいて、口が卑しい身としては、グルメな数々がすぐに思い浮かんでしまいます。

 

 このように地域やエリアを示す名称としてなじみ深い「丹波」ですが、元々は奈良時代に定められた地方行政区分の単位である「国」の一つにあたり、和銅6年(713)に丹波国の北部4郡が分割されて丹後国となるまでは、日本海沿岸から本州内陸部の広大な範囲を占めていました。

 ちなみに読みは丹波を「タニハ」、丹後を「タニハノミチノシリ」と発音し、万葉仮名では「太邇波(たには)」、「太邇波乃美知乃支利(たにはのみちのしり)」と書きます。また10世紀に編纂(へんさん)された「延喜式(えんぎしき)」では大・上・中・下の四等級に分類される全国68か国の内、丹波国は上国の一つとなっています。

 

 さらに五畿(大和・山城・摂津・河内・和泉)・七道(西海・南海・山陽・山陰・東海・東山・北陸)の地方区分の中では、都から出雲へ向かう山陰道(丹波・丹後・但馬・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)・出雲(いずも)の1番目の国として、奈良―平安時代、そして中・近世を通じて特に重要な存在となっていたと考えられます。

 

 地理的には、中央分水界(ちゅうおうぶんすいかい)とも呼ばれる険しい山々によって国の中に2か所もの分水嶺(ぶんすいれい)(石生(いそお)、胡麻(ごま))を持つ珍しい国でもあり、それぞれの分岐点から丹後を経て日本海側へと流れる由良川、播磨を経て瀬戸内海へ注ぐ加古川、山城・摂津・河内を通って大阪湾に流れ込む大堰川(おおいがわ)などの3つの流域を持ち、一般的に中(奥)丹波、西丹波、南(口)丹波と呼ばれるエリアに分かれています。

 

 このため一つの国としてまとまりを欠く半面、それぞれが隣り合う但馬(たじま)や若狭(わかさ)、摂津(せっつ)や播磨(はりま)、そして山城(やましろ)国と深いつながりを持つことで、特徴ある文化圏を形作ってきました。

 この丹波の特性によるものなのか、この国の土地支配は平安時代以降から都の有力寺社、皇族・公家などの権門勢家による荘園(しょうえん)が数多く設けられ、これら勢力の経済的な基盤を支える地域として発展していきます。

荘園を管理する荘官には地元の土豪たちが任命され、また権力者の考えによって他の地方から送り込まれたりしました。この様子が中世以降も続いたたことで、他の地域に比べて寺内町(じないまち)のような自治を持った村落の発展や、有力な大名が育ちにくい環境にあったと考えられます。

 しかし戦国時代ともなると、守護代であった内藤氏や波多野氏、細川氏の被官であった赤井氏などは自身の勢力拡大を図るため荘園を切り崩していきます。ただ大名による一円知行(いちえんちぎょう)のような一国支配構造はなかなか成立せず、おおむね郡単位の範囲に留まるものでした。そしてこの様相に終止符を打ち、丹波をまとめたのが明智光秀の丹波平定です。

 丹波全域を支配した最初の大名、それが明智光秀なのです。

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