ときは今、明智光秀ここに見参【5】

こんにちは!明智光秀大好きすぎて明智光秀をテーマにした洋菓子店を作った明智茶屋初代店長の植村です。

2020年に明智光秀が大河ドラマに決定したのはご存じですか?僕はとても嬉しく思っています。

もともと、大河ドラマが決定するまでにお店をオープンさせたい!とゆう想いは20代中頃からあって、2015年にオープンしました。

なぜ決定するまでにオープンしなければいけなかったかとゆうと、決まってからオープンしたのではミーハーとゆうか、のっかったとゆうか、、、

そんなんじゃなくガチなんだぞ!と証明したかったからです。

で、まぁ願い叶ってやったー!って感じなんですけど、ここからなにをして2020年を迎えるかってとても大事ですよね。

なので、「たくさんの人に知ってもらう為の準備」をしようと思います。

 

前のブログで丹波攻めをキーワードにブログを書いていたのですが、

前回までのブログ↓

丹波攻略についてまとめてみた

丹波攻めやってみた

丹波攻めやってみた②

今回は地元の新聞社「両丹日日新聞社」の記事を紹介していきます。

なんで両丹新聞社の記事を紹介するのかというと、良質な記事なのでもっと多くの人に読んでもらいたいと思ったからです。

ただ、思うのはいいけど、勝手にしちゃいけないのです。

筆者の八瀬さんに連絡をしてみたところ、快くOKをもらえたので今日に至ります。

八瀬さん両丹日日新聞社さんありがとうございます。

 

 

 

出所;両丹日日新聞「時はいま 明智光秀 ここに見参」連載記事

タイトル;「明智光秀の謎 出自(しゅつじ)その2」

文責(筆者名);八瀬正雄

 

もし、あなたが見ず知らずの土地で同郷の日本人と出会ったら。たとえば、新しい学校や職場で同じ出身地の人と一緒になったなら、多くの人が経験するシチュエーションですが、それだけで意気投合。もしかすると共通の友人がいたりして、「世間は狭いねー」なんて、すっかり昔からの知り合いみたいに。きっと誰もが生まれ育った故郷は忘れがたい、さらに時間という財産が加われば、何もかもすべてが懐かしい。そんな大きな力を持つのが故郷です。

 何の話かって? すみません、明智光秀は美濃(みの)の出身という、前回からの続きの話です。

 さて本題。福知山市の北部地域下佐々木(しもささき)、かつて修験道(しゅげんどう)の聖地であった三岳山の麓(ふもと)に、城郭のような石垣と白壁に囲まれた山寺が目に入ります。ここが威光寺(いこうじ)、正式には宝城山明王院威光寺(ほうじょうざんみょうおういんいこうじ)と呼ばれる真言宗のお寺です。

 江戸時代の寛文3年(1626)に作成された威光寺の文書「寺社御改ニ付一札(じしゃおんあらためにつきいっさつ)」の写しによると、修験道の開祖役小角(えんのおづえ)(役の行者)の弟子である聖宝(しょうほう)(理源大師(りげんたいし))を開山として、本尊に薬師如来を置き、最盛期には三十六の諸院を数える大寺院であったと伝えます。室町時代の天文年中(1532~1555)の火事により、寺の建物はことごとく焼失したようですが、この時には佐々木荘(ささきのしょう)の地頭であった大中臣(おおなかとみ)氏の尽力によって再興されたことが記されています。また別に、この寺が持つ鎌倉時代の書状(元応3年(1321)やお堂建立に際して奉納された棟札からも、大寺院だったことが裏付けられています。

 この「寺社御改二付一札」には、数回の追記があり、特に三岳・金山の15箇村、5千石が飯野藩(いいのはん)保科(ほしな)領(千葉県富津市)に拝領された翌年に際に提出された延宝6年(1778)の追記には明智光秀にまつわる地元の口伝(伝承)をまとめた「里老ノ曰(さとおいのいわく)」、「里老茶話ニ曰(さとおいのちゃばなしにいわく)」などが収録されています。

 もちろん光秀が没してから100年以上も後に編纂(へんさん)されたものであるため、真偽は明らかではありませんが、広く福知山周辺での出来事も数多く記されているようで、当時の社会情勢を考える上で貴重な資料となっています。

 次にに福知山市史第二巻に掲載の「里老ノ茶話ニ曰」の意訳を私なりに読み下してみます。「-前略- 天正七年、明智光秀が丹波国を平定した時のこと、近隣の寺を取り潰(つぶ)して、その寺の石塔などを福知山城を築くために運んだ。このとき今安寺や威徳寺も潰されたが、これは丹波平定に際してこれら寺々が光秀に反抗した罰である。威光寺にも光秀の軍師(指揮官)の妻木某(つまきぼう)(某=名は不明という意味)がやってきて寺を潰し始めたが、寺の住職と妻木殿、そして主人の明智殿が同じ美濃の出身であることがわかり、懐かしく、意外な巡り合わせに寺の存続を約束し、既に潰した6つの子院の材木で住職の庫裏(住居)を建ててくれた。また翌月には住職を福知山城へ呼び出し、威光寺の財産を守る禁制を出す許可を下してくれた。-後略-」

 注目したいのは文中の「軍師 妻木某」。この名を聞いてピンときたあなたは、かなりの光秀ファンですね。そう、前回も記した土岐(とき)氏の支族に妻木氏の名がありました。そして明智光秀の妻である煕子(ひろこ)は妻木広忠(ひろただ)の娘であり、妻木氏の出身です。さて、住職と妻木殿がどんな会話を交わしたかは定かではありませんが、冒頭のように同郷の話題に話が弾んだのでしょうか。

 光秀はというと、斎藤道三(さいとうどうさん)の息子義龍(よしたつ)に美濃国を追われ、戦国の世に身を投じて将軍家、織田信長のもとで野望渦巻く闘いの日々のなか、故郷を訪れた記録は残っていません。

 天下を取ったその時、いつか故郷の地を踏むことも夢見ていたのではないのでしょうか。その夢がかなうことなく命運は尽きた。そんな想像が頭を駆け巡ります。

 

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