ときは今、明智光秀ここに見参【4】

こんにちは!明智光秀大好きすぎて明智光秀をテーマにした洋菓子店を作った明智茶屋初代店長の植村です。

2020年に明智光秀が大河ドラマに決定したのはご存じですか?僕はとても嬉しく思っています。

もともと、大河ドラマが決定するまでにお店をオープンさせたい!とゆう想いは20代中頃からあって、2015年にオープンしました。

なぜ決定するまでにオープンしなければいけなかったかとゆうと、決まってからオープンしたのではミーハーとゆうか、のっかったとゆうか、、、

そんなんじゃなくガチなんだぞ!と証明したかったからです。

で、まぁ願い叶ってやったー!って感じなんですけど、ここからなにをして2020年を迎えるかってとても大事ですよね。

なので、「たくさんの人に知ってもらう為の準備」をしようと思います。

 

前のブログで丹波攻めをキーワードにブログを書いていたのですが、

前回までのブログ↓

丹波攻略についてまとめてみた

丹波攻めやってみた

丹波攻めやってみた②

今回は地元の新聞社「両丹日日新聞社」の記事を紹介していきます。

なんで両丹新聞社の記事を紹介するのかというと、良質な記事なのでもっと多くの人に読んでもらいたいと思ったからです。

ただ、思うのはいいけど、勝手にしちゃいけないのです。

筆者の八瀬さんに連絡をしてみたところ、快くOKをもらえたので今日に至ります。

八瀬さん両丹日日新聞社さんありがとうございます。

 

 

 

出所;両丹日日新聞「時はいま 明智光秀 ここに見参」連載記事

タイトル;「明智光秀の謎 出自(しゅつじ)その1」

文責(筆者名);八瀬正雄

 

「明智光秀は謎に満ちた人物である」。歴史ファンのみならず、多くの研究者までもが口をそろえて言うのだから、間違ありません。というのも、出生から前半生がまったくもってミステリアスなのだから・・・。

 光秀の歴史上の初見は、永禄(えいろく)11年~12年(1568~1569)頃、激動の動きを見せる戦国時代に突如として登場し、足利将軍家、織田信長家臣を渡り歩きながら、数々の事績を挙げ、その十数年後の天正10年(1582)には歴史上最大のミステリーともいわれる「本能寺の変」を引き起こします。

 そして瞬(またたく)く間ではありましたが、歴史上数少ない「天下人」にまで上りつめました。だからこそ光秀の生涯は謎に満ちているといえるのです。

 

 もちろん記録がないから何もわからないでは、ドラマは生まれません。多くの人の努力、幾多の研究者たちが関連する資料や地元の伝承、後世の記録を駆使しながら一つ一つその謎をひも解いていく、そこに歴史の面白さがあると思います。

 

 さて光秀生誕の地と伝えられるのは、数々の戦国大名を世に送り出した美濃(みの)国(岐阜県)とされ、その守護であった土岐(とき)氏の庶子家(しょしけ)(分家:支族)である土岐明智(ときあけち)氏の出身とするのが、通説となっています。

 各地の由来については別表を参考にしていただきたいのですが、現在では可児(かに)郡明智(現可児市・可児郡御嵩(みたけ)町)が最も有力な出生の地とされています。

 しかしながら、この地と光秀との関係を積極的に裏付ける資料は少なく、まるで霞(かすみ)がかったようで不明瞭なのです。例えば光秀が大名ともなれば、故地を訪れてもよさそうなのですが、そのような記録は伝えられてはいません。

 一方、土岐氏は清和源氏頼光の末裔(まつえい)と伝え、平安時代も末の頃、美濃国南東部の土岐郡を本拠として興(おこ)り、南北朝の動乱(1336~1392)に土岐頼貞(ときよりさだ)が足利尊氏(あしかがたかうじ)にしたがって美濃守護に任命されます。最盛期には美濃・尾張・伊勢の三国の守護を兼任するまでとなり、室町幕府では要職に就く家格を誇り、200年にわたって美濃を支配してきました。

 

 けれども戦国時代の天文(てんぶん)年間(1532~1555)、油売りから身を興し、大名となった斉藤道三(さいとうどうさん)に宗家(そうけ)(本家)の土岐頼芸(ときよりあき)は破れ、美濃を追われて没落します。

 そして、その間にも土岐氏は、美濃を中心に明智氏、池田氏、石谷(いしがや)氏、揖斐(いび)氏、饗庭(あえば)氏、多治見(たじみ)氏、妻木(つまき)氏、蜂屋(はちや)氏などの庶子家が百以上も輩出します。

 このうち明智氏は南北朝時代の土岐頼重(■ときよりしげ)の時、はじめて土岐明智氏を名乗った(「明智系図」)とされ、数ある庶子家の中でも、早くに分立した有力氏であったようです。

また、光秀が美濃の土岐氏出身であることは、彼の周辺に可児氏、妻木氏、下石(おろし)氏など東美濃出身の家臣、親類などの姿が見えること、同時代の良質な資料と評価される「立入左京亮入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)」や「遊行三十一祖京畿御修業記(ゆうぎょうさんじゅういっそきょうきおんしゅうぎょうのき)」にも、光秀が美濃、土岐の出身と記されていることからも裏づけられています。

 ところで、光秀が美濃に所縁を持つ人物であることを伺わせる資料が、福知山でも密かに伝えらえています。さてさて、この件については次回に。しばしお待ちください。

出生地 伝承地 由 来 備考
可児郡明智(岐阜県可児市・御嵩町) ・明智城

・天竜寺

(光秀位牌)

(明智氏歴代墓所)

・土岐明智氏の所領

・別名長山城と呼ばれ、平安期から摂関家、後に岩清水八幡宮の荘園「明智荘」となる。

・初代城主は土岐明智次郎長山頼兼、以後代々明智氏が城主地なる。

・旧暦6月、光秀公御法要

「美濃国諸旧記」

「明智軍記」には叔父光安が光秀の後見として明智城を所領。斎藤義龍に攻められ城は落城し、光秀は城を脱出して諸国放浪する。

恵那郡明智

(岐阜県恵那市)

・明知城

・光秀供養塔

(龍護寺)

・恵那郡明智は中世から近世を通じて遠山明智氏に拠る。

・遠山明智氏は元亀3年(1572)武田信玄に攻撃され本拠を失う。

・関ヶ原の合戦で功績を遠山利景が恵那・土岐郡内で領地を与えられ明知城に戻った。

美濃と信濃の国境にあるため織田氏と武田氏の間で争奪戦が繰り広げられた。

遠山明智氏に係列と思われ、光秀との関係は薄い。

山県郡美山

(岐阜県山県市)

・桔梗塚

(光秀墓)

・この地生まれ、後に可児郡の明智家に養子に入った。

・光秀は山崎の合戦では死なず、ひそかに生き延びて故郷の山県中洞で名を変えて生き延びた。

20世紀を遡る記録は無い。

 

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